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中世ヨーロッパにおける移動

  • aeiou1288
  • 2017年4月27日
  • 読了時間: 3分

道は商人や軍隊の移動のためになくてはならないものである。

道の建設によっては移動はより速くなり、国境を守るために戦う軍隊にとっては素速い移動を可能にすることはとても重要だった。つまり道、交通の整備は経済や政治的な側面を持っている。

しかし、移動とそのための道の整備には莫大なお金がかかる。

中世以前、フランス地域を支配していたガリア人がローマ帝国によって征服された後、ローマ人は次々と道を建設し、交通整備を整えていった。ローマ人の作った道はすべて、リヨンへと繋がっている。これは、ガリア人の中心地がリヨンだったためである。

中世ヨーロッパの人々は、ローマ人の整備したあらかじめ存在する道を使うことはなかった。

なぜなら、ローマ人の作った道は必ずしも都市と都市を繋いではおらず、商人の行き来するのに不向きだったからである。そのかわり、地方のそれぞれの街を中心に星形にローカルな規模の道を新たに作っていった。なので、中世のヨーロッパ(特にフランス)の道の規模はそこまで大きくはない。

しかし、イェルサレムやローマ、サンジャックドゥコンポステルへ巡礼する人々のためにある道に関しては大規模なものもあり、これらには古代ローマ人の作った道が再利用された。

領主たちは通行税を設置し、交通を支配した。誰でもかれでも通すのでは、領内に危険が及ぶので安全のためという名目だったが、本当の目的は通行税を巻き上げることであった。

領主たちは道を作り、整備し、交通をコントロールすることで、商人たちの移動ををスムーズにし、自分たちの領内で毎年行われる大きな定期市に積極的に招いた。たとえばシャンパーニュでは、ヨーロッパ規模での巨大定期市が開催され、様々な地方の商人が行き交う国際的な交流の場所となっていた。例:フランドルの毛織物がイタリアなどの南の地域にも売れていた。

中世の道を勉強する際、iitinérairesとtracésを区別することが重要である。

例えば、2つの街の間にある何本かの平行なtracésは、一本のitinéraireとして考えられる。中世の道はタイルや石での塗装はなく(大都市や修道院付近、橋を除く)、整備のレベルに関してはあまり高度なものではない。現在でも、古い道には当時の馬車が横滑りしないようにするための盛り土と車輪の跡が残っている場所がある。

現在、私達の利用している道の多くは昔の道の地層の上に作られたものである。中世の人々がそうしたように道は、形を変えながらもしばしば再利用される。特に大規模なものは古代からそのまま残っていて、再利用される場合が多い。なぜなら、そういった大きな道は主要都市同士をつなぎ、主要都市は古代から何らかの理由で、いつも重要な街としての役割を果たしてきているからである。

中世の移動方法(陸路):

- 徒歩

- 馬:200 kg, 30-50 km/jour (ロバや馬も含む)

- 二輪馬車 : avec bras en bois, porte 700 kg, 30 km/jour, 2-3 chevaux

- 四輪馬車 : 1200-1500 kg, 2-4-8 chevaux ou plus, 長距離移動が可能

馬車を引く馬の手綱を強くひっぱっても、馬が窒息死しないように肩に取り付けるタイプの肩輪?が発明された。

中世の移動方法(河川):

- 浅瀬 : たまに塗装してある

- 橋 : 木→石

橋の下の土が柔らかい場合には橋の土台部分にピロティが用いられる。

木は川などの湿度の高い場所では長持ちする。

川には水車や釣り場などもあった。

川で移動に利用された舟の船底は平らで、時には馬が引くこともあった。

川を下る場合には、シンプルにいかだ、もしくは薪を流したりする。

舟の種類 :

- 1本の木による丸木舟 : ils sont taillés directement dans un tronc d'arbre

- 2本の木による丸木舟 : plusieurs pièces monoxyles mises ensemble

- 普通の舟 : manière classique de faire des bateaux

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