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POST RÉCENTS : 

パリの考古学と建築の歴史研究所

教授に紹介してもらったパリの考古学と建築物の歴史研究所にて研修してきました。これはパリ市庁の文化部門のひとつで、パリに関する文献や資料、出土品の保管と研究、パリ市内での発掘や建物の保全、修復などを主に行う課と、パリに関する古い地図や地形図、文献を保管し研究する課がある。職員は考古学者、修復師、技術写真家、文書館員など。

私の研修の責任者は土器の専門家だったので、主にシャルル5世通りの発掘による出土した土器類の目録をまとめたりした。だいたい14〜16世紀ぐらいのもの。他にも、簡単な修復だったり、洗浄だったり、データ打ち込みだったり、土器と瓦の実測図描きまくったりなどの作業を細々とこなした。

実はパリは考古学的ポテンシャルがかなり高く、古くは中世の頃から、一部のアンティーク好きやローマ帝国へのあこがれから、les arènes de Lutèceのような遺跡を調べたり、訪れたりしていた。ただ、注意すべきなのは、これらはただの興味関心による調査であり、現在の科学的、考古学的な発掘とは全く異なるということ。なぜなら、この時代にはまだ厳密には学問としての考古学は存在していないからだ。

近代になると、ローマ時代の遺跡は考古学的方法や視点から少しずつ解釈されたり、研究されたりするようになる。フランス革命後には高精度の挿絵を含む調査報告書などが執筆、出版されるようになる。

19世紀頃にやっと、正真正銘、パリの考古学がテオドール・ヴァケによって誕生する。彼はパリの行政機関に所属する建築家で、発掘現場の監視を命じられていた。19世紀、パリはそれまで中世に形成された町並みを保っていたが、オスマンという政治家により、パリの都市化計画が敢行され、多くの中世から残る建物が取り壊された。それのついでと言っては何だが、同時に発掘作業も行われた。ヴァケはそれらの建物の取り壊しと発掘を監督し、les arènes de Lutèceのようなごく一部の考古学的価値を認められた建物は保存されたが、それでもやはり、大多数の建物は取り壊された。

ちなみに有名なヴィクトール・ユゴーなんかはこの都市化計画によって壊されそうになった建物の保護を訴え、その活動の影響から、ノートルダムの鐘を書いたらしい。そのおかげで我々は今でもノートルダムを拝めるわけなので、ユゴーすごい。

1897年、ヴァケの調査はCommission du Vieux Parisという機関に受け継がれた。これは、パリの考古学と建築物の歴史研究所の前身となる機関で、当時、主にパリの古代から中世の文化遺産の保護、発掘を行っていた。

1982年、ついに現在の発掘と同じようなきちんとプロの考古学者や専門家のチームによる科学的な考古学調査や発掘が行われるようになる。この頃に行われた発掘調査としては、サンドニ大聖堂の発掘などがある。

1990年, パリ市庁はCommission du Vieux Parisを吸収し、現在のパリの考古学と建築物の歴史研究所を設立した。

パリで考古学調査を行う団体は、パリの考古学と建築物の歴史研究所と国立予防考古学研究所(INRAP)とその他の民間企業から地方行政まで様々である。これらの研究所と団体は独立して調査を行う場合もあるが、協力して調査を行う場合もある。

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