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POST RÉCENTS : 

シャルルマーニュとエクス・ラ・シャペル(アーヘン)②

宮殿から教会へと伸びる回廊は直接Aula(面会室)へと繋がっている。この回廊によって、シャルルマーニュは教会の入り口から入らずとも、他の入り口から直接大理石の王座の間に姿を表すことができ、シャルルマーニュの王としての威厳を引き立たせる構造となっている。さらに王座はミサや祭壇がよく見える配置に配置されていた。

上階は管轄教区の教会、下階は共同生活する修行僧の学生のためのスペース(おそらく)だった。

エクス・ラ・シャペル« Aix-la-Chapelle »はラテン語の « capella »に由来する。 « capella »はサンマルタンのマントの逸話による。つまり、« capella »はサンマルタンの聖遺物ということになる。

初期中世において、教会(église)という言葉は、 11世紀以降の意味合いとは異なり、より柔軟に使用されていた。11世紀以降、教会は7つの秘跡(洗礼や婚礼など)を行う場所であり、もしその一つでも欠けていれば、Chapelleという言葉を使わなければならなかった。

内部を飾るモザイクは皇帝の権力をこれでもかと知らしめる図像構成である。さらに、ラヴェンナから取ってきた材料も相まって当時の人々は圧倒されたに違いない。

そして、シャルルマーニュは古代ローマ後期に造られた石棺に埋葬された。これも、自らの威信を示すためである。シャルルマーニュの墓は中世の頃、すでに参拝者(?)が多く訪れていた。キリスト教に改宗していたシャルルマーニュにとって、古代ローマの神々は異教であったが、そのあたりは問題にはならなかった。

カロリング・ルネサンス:シャルルマーニュは多くの知識人を呼び集めていた。

研究者の間では、エクス・ラ・シャペルのモデルはラヴェンナなのではないかという説が挙げられている。エクス・ラ・シャペル大聖堂の円形構造はその後、中世の教会建築に大いに影響を与え、特に同じような設計の教会がドイツや北ヨーロッパで建てられた。これも、シャルルマーニュの威光にあやかりたいという思いがあったからかもしれない。

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