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POST RÉCENTS : 

古代ケルト人の墳墓の発掘(Lavau)

2014年、L’INRAP(Institut national de recherches archéologiques préventives)が、Aube県、Lavauで、紀元前5世紀頃のものと思われる墳丘を発見し、現在も発掘作業が進められている。

上空から写真によると、墳墓は堀で取り囲まれていて、墳墓の直径はおよそ40mあるということが分かった。

死体は墳墓の中心にある部屋(広さは14m2)から見つかった。専門家たちによると、今まで発見されたこの時代(ハルシュタット)の墳墓の中では最大のものであり、その大きさ、構造の複雑さ、また発見された装飾品から、君主とその家族、もしくはかなり身分の高い人物の墓だと推測されている。 

墳丘の倒壊した地層からは支柱(木材)の跡が発見された。埋葬されている部屋の角には、ブロンズ製の聖具を入れる大きな大皿、溝で模様付けされた土器、短剣の鞘、そして、1mあるブロンズ製の鍋が発見された。鍋の取っ手にはアケロオス(Acheloos)の頭の彫刻が施されていた。

アケロオスはギリシャの川の神であり、通常、角と長い顎ひげ、牛のような耳、特徴的な口ひげを持っているので、見ればすぐにわかる。他にもギリシャやエトルリアの壷などが発掘された。

例:アッティカのオエノコエ

赤い背景(粘土の色)の黒で絵が描かれている。描かれているのは、ぶどう園で横たわるディオニュソスと立っている女性。

これはおそらく、宴会の場面。壷口の縁と底には、蛇行模様の金線細工が施された金の鉄板が埋め込まれている。

このようなギリシャやエトルリアから交易によってもたらされた品は、Lavauより北のフランスの地域ではまだ発見されていない。

おそらく当時のケルト人のエリートたちはこのオエノコエの宴会の様子から影響を受けて、その様式を真似ていたかもしれない。

この墳墓の注目すべき点はその永続性にある。この墳丘と周辺の堀の形成はおそらく紀元前1300〜800年と測定されている。

この年代の地層からは、大量のブロンズ製のブレスレットや剣などが見つかった。

つまり、紀元前500年にケルト人のエリートによって墳墓が建てられる以前にも、おそらくこの地は埋葬の場として利用されており、さらに、その後ガロロマンの時代にもこの墳丘は墓所として利用されていたと考えられる。

紀元前6世紀の終わり頃、地中海地域のエトルリアやギリシャ、特にマルセイユ(当時ギリシャの植民地だった)間で、奴隷や鉄、琥珀などの高級品の交易が活発になり、当時フランス地域に定住していたケルト人コミュニティもその恩恵を受けた。

彼らは ロワールやセーヌ、ソーヌなどのフランス地域のあらゆる河川を把握しており、この豊富な交通知識によって、この墳墓で発見されたような品々をエトルリアやギリシャから手に入れていたようだ。(おそらく交易の拠点はマルセイユ)

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