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POST RÉCENTS : 

中世ヨーロッパの教会①

キリスト教とは救済を得るための宗教である。原罪から許され、天国に行くことが現世を生きる上での最も重要な目的である。中世ヨーロッパにおいて、ほとんどの人はキリスト教徒だった。この時代に芸術で扱われるテーマのほとんどが聖母子や聖人であるように、宗教は中世において文化の中心であった。

また、宗教は人々の人生、時間を支配した。貴族たちが狩りの時に自分たちの領土を知らしめるため鳴らした笛に対抗して設置されるようになった教会の鐘は、一日の始まりである礼拝の時間を人々に伝えた。クリスマスやイースターといった行事も、人々に年周期の感覚を与えた。さらに洗礼や婚礼、病人が死ぬ直前の聖人化(原罪から救われ、天国に行くため)といった人生における重大なイベントもまた教会で行われた。

キリスト教徒の他にも、中世ヨーロッパにはユダヤ教徒が存在した。発掘によって中世の街には、しばしばシナゴーグが存在したことがわかっており、キリスト教徒と共存していたと見られる。

教会建築は最初のキリスト教芸術であり、考古学調査、発掘の際にはキリスト教美術に関する知識が必要不可欠となる。教会は城より保存状態がよく、破壊されずに残されているものが多いので、当時の建築技術などを知る手がかりとなる。建築や美術だけでなく、教会で行われた宗教儀式、またその儀式と建物の設計の関係なども研究の対象となる。1980年台まで、発掘や調査の対象はカテドラル(カテドラルとは、司教の管轄する教会のこと。)のみであったが、その後、墓地や付属の修道院など、教会を取り囲む様々な場所が調査されるようになった。

キリスト教と中世の街の成り立ちは密接な関わりを持つ。4世紀以降、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した(当時キリスト教はまだ異端とされていた)ことによって、キリスト教徒たちは次々とローマ帝国が支配する土地に設置された各地の街に受け入れられていった。キリスト教徒がそれぞれの街へと流入する際に、ひとつの街につき、ひとりのキリスト教司祭が住むよう振り分けられた。

実は、中世中期、徐々にフランス王国の中心地となっていったパリも、はじめはこのようにしてできた司教区ひとつであった(ちなみに大司教区はSens)。結果として、ローマ帝国後期の地図における街の位置と、中世初期の地図におけるキリスト教司教区の位置とはぴったり合致する。司教や大司教による宗教管轄区はローマ時代の街の遺産と言える。

« paganus »という言葉はラテン語で地方に住む者、つまり都市の外に住む者を意味するが、これはフランス語で農民や田舎者を意味する« paysan »という単語の語源である。さらに、異端を意味する« païen »という言葉は« paysan »から派生したものである。

中世には、le groupe épiscopalというものが存在した。例えば、リヨンではSaint-Jean, Saint-Étienne, Sainte-Croixの3つの教会が隣接している。このようにいくつかの教会が横並びに存在する場合をle groupe épiscopalと呼ぶ。なぜ3つも横並びに存在する必要があるのか。リヨンで発掘が行われた。

伝統として、Saint-Jeanという名のつく教会は、洗礼をとり行うための洗礼堂であることが多い。(Saint-Jean Baptisteはイエスに洗礼を施した人)そして、Saint-Étienneと名のつく場合、カテドラル、つまり司教つきの教会であることが多い。このSaint-Étienneの内部には、すでに洗礼室が存在し、Saint-Jeanのような付属の洗礼堂は必要がない。配置としてはSaint-ÉtienneとSainte-Croixの間にSaint-Jean(洗礼堂)があるという構図。この構図はle groupe épiscopalのもっとも一般的な建物の配置である。

Saint-Jean、洗礼堂は実はles chanoines(司教とともに聖職にたずさわる人たち)の住まいとして使われていた。キリスト教初期に行われていた洗礼の儀式では、全身水に浸かる必要があったため、広いスペースが必要だった。しかし、徐々に洗礼の儀式は簡略化されて、少しの水を体の一部にかけるだけで済むようになり、カテドラル内に設けられた洗礼室で儀式が行われるようになっていった。もともとあった洗礼専用の洗礼堂は廃れていき、そのまま放棄されるか、リヨンのように聖職者の住居となったりした。

Les chanoinesはles moines(修道士)と違って、社会から孤立しようとはしなかった。リヨンには、le quartier canonialという地区があり、復数の小さめの家があり、les chanoinesはそこに住むこともある。Les chanoines は司教と同じく社会的地位が高かった。Les chanoines で構成されるle chapitre cathédral(司祭団体)は、カテドラル建設のため、お金を収集する役割を担っていた。(la dîme(十分の一税)などが主な収入源だと思う。)街によっては、le quartier canonialは防壁に囲まれていることもある。

参考文献

Reynaud, J.-F. Lyon aux premiers temps chrétiens : basiliques et nécropoles (Rhône), Paris, 1986.

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