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POST RÉCENTS : 

11〜13世紀にかけての農民事情

農民はおおまかに2つの種類に分けられる。裕福な農民と貧しい農民である。

たとえばLes laboureursは他の農民(les manouvriersやles brassiers)などよりは、かなり裕福だった。

なぜなら、彼らは鋤を持っているので、les manouvriersよりもかなり速いスピードで耕作することが可能だったからだ。

11世紀から13世紀にかけて、人口が躍的に増加したせいで、農民が耕作できる一人あたりの土地はかなり小さくなった。一方で、多くの村や街が発達した。農民たちの中には街の近くの土地に引っ越し、裕福になる者もいた。 この時代の農民に関する資料はすべて領主たちからの視点で書かれており、領主たちは一般的に農民について書く場合かなりネガティブに脚色する傾向にある。(野蛮、馬鹿、汚いなど)しかし、土地を耕し、税金を納めてくれる農民が自分の領内から引っ越して街や、もっと待遇の良い領主の土地へ行ってしまうことを領主たちは常に恐れていた。 Le paysan « libre »と le serfの違いはあまりない。なぜなら、Le serfよりは比較的に簡単に引っ越したり出来るだけで、厳密に言えばle paysan libreなどは存在し得ないからである。Les serfは払わなければならない税金が他の農民より多い上に、そう簡単には引っ越したりすることはできなかった。Le serfになるには領主に誓いをたて、儀式を行う必要があった (= le chevage)。彼らは結婚や相続の際に、結婚税(le formariage)や相続税 (la mainmorte)を領主に払うことを課された。

では、なぜ人々はle serfになるのか?それは他に選択肢がないから、もしくは、稼げるから、この2つの理由からである。

Le serfは領主と誓いの儀式を交わしているので、領主から比較的信頼を得ていた。領主宅から遠い場所の税金の徴収はles serfsに託されることもあり、その集めた税金の1%を報酬として得ることを許されていた。

他にも、領主から土地と家を与えられるので、本当に貧乏で土地も持っていない、最悪借金まであるようなもう後がない農民はle serfにならざるを得なかった。

なので、les serfsの中には裕福になるものもいて、他の農民に金を払ってla courvée(領主の畑での無償報酬)に自分の代わりに行かせたり、時には領主との契約を破棄し、自由の身となるものもいた。しかし、領主との契約の解消には巨額の税を納めなければならなかった。領主の中には、その解消金欲しさにわざわざles serfsを自由の身にしてやる者もいた。もしくは、他の領主に譲ったり、売りつける場合もあった。

Le serfは他の農民たちからとても嫌われていて(税を徴収しに来るから)、時には農民の暴動に巻き込まれて、殺されることもあった。

ちなみにLe serfはフランスの北や東の地域には存在しなかった。 シトー会のles conversは13世紀後半に入ると急激に数が減った。彼らは、les conversをやめて、les serfsになっていったようだ。 強い領主は多くのles serfsを持ち、その数があまりに多い場合、領主は彼らを一箇所にまとめて住まわせるための街をひとつ作ることもある。逆にそこまでles serfs を持たない弱小領主は自分の領の目印となるようにles serfsを各地へ散り散りに住まわせた。 カロリング朝の後、農民の持つ土地の大きさは農民によってかなり異なり、そこから農民間での貧富の差が生まれた。先に述べたように、裕福な農民は領主から独立して、街で暮らす者もいた。 さらに、農民たちは徐々にコミューンを形成して、収穫後の土地ではすべての農民が自由に家畜を離したりすることができるようにしたり、同じ土地の収穫を共同して行ったりするようになっていった。そのようなコミューンができると同時に、よそ者への警戒心は大きくなっていった。新たに移民として来た者はそこに定住するために税を払う必要があった。大きなコミューンは権力を持ち、領主たちと協定を結ぶこともあった。このような例はフランス、スペイン、イタリア、フランドルで確認されている。協定は主に、税率の固定や(もちろん税を軽くしてもらうよう交渉しつつ)、領主に対する農民の義務などについて、取り決められた。

これはレジュメバージョンなので、時間のあるときにまた追記します。

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