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POST RÉCENTS : 

考古学から知る、ヴァイキング時代以前の北欧

ヴァイキング時代以前(紀元700〜800年以前)の北欧では、多くのローマ時代の遺物が発見されている。ヴァイキングがヨーロッパや中東に進出する遥か昔、紀元1世紀頃にはすでにローマ・イタリア地域との交易が行われていた。多くのローマ時代の遺物の発見から、北欧の時代区分においてだいたい紀元1世紀から4世紀までの時代を« l'âge du fer romain »、ローマ鉄器時代と呼ぶ。

土器などの当時それほどの価値のなかったものは北欧には流入することはなかった。調査によると、Limes(ローマ帝国の領域を示す境界線)付近では多くの土器が発見されているにも関わらず、このLimesから北へ離れれば離れるほど、見つかるローマ土器の数は減るという結果が明らかになった。一方で、貴金属などの高価なものはエリート層の墳墓から多く出土している。

ヴァイキング時代以前とヴァイキング時代との異なる点は、これらの出土品は略奪によってもたらされたものではないということである。なぜ略奪によるものではないと言えるのか?

いくつかのエリート層のものと思われる墓から、イタリア製のガラスの角のコップ(les cornes à boire)が出土した。イタリアには角をコップにとして使う文化はないし、分析の結果、このガラスはイタリア製のものであると分かった。つまり、北欧人の生活スタイルに合わせた製品をイタリアで生産し、北欧へ輸入していたのである。このような贅沢品と交換するため、北欧人はローマ人に毛皮や琥珀、奴隷などを輸出していた。奴隷貿易は考古学的証拠が残りにくいので、確証を得るのは難しいが…

物資の輸入は主に西から(ローマ世界)、と東から(黒海付近)からとに分けられる。

イタリア製のガラスの角のコップ

JØRGENSEN, L. & PETERSEN, P. V. 1998. Guld, magt og tro. Danske skattefund fra oldtid og middelalder. Gold, Power and Belief. Danish gold treasures from Prehistory and the Middle Ages, Kolding, Nationalmuseet, Thaning & Appel.

紀元2世紀〜3世紀、北欧世界(ここではローマ化されていない北の国々を指す)では、ある変化が起こった。

①家屋を囲む柵の出現

②葬祭と宗教における変化、生け贄としての武具の出現

である。これらの変化は数十年のうちにかなりの速さで広まったと考えられている。仮説として考えられるのは、マルクスアウレリウスアントニウスのゲルマニア地域での軍事的失態との関係性である。おそらく北欧人たちはローマ軍としてゲルマニアで雇われていた可能性があり、その影響からこれらの変化が起こったと考える専門家もいる。

紀元4世紀、さらに新たな変化が訪れる。王国(小規模ではあるが)の形成である。おそらくこの形成過程には武具を生け贄として捧げる儀式が関連しており、北欧社会における階級の成立を助長したと考えられる。

さらに、ローマ文化に影響を受けていた北欧の装飾様式は徐々にゲルマン系の様式に類似していき、動物を模したモチーフが特徴であった様式はstyle salin(salin I, II, III)へと変化していった。

例としてあげられる遺跡

- Hoby (デンマーク南部) : 紀元1世紀の首長か何か身分の高い者と思われる墓から多くの南イタリアからもたらされた遺物が出土。中でも有名なのはイリアスの1シーンが描かれた銀製の器。紀元9年のゲルマニア地域トイトブルクでの戦いの償いとして、おそらく外交目的でローマ側から贈呈されたものと思われる。この戦いの後、ローマ帝国側はこの付近の統治方法を軍事的抑圧から外交政策へと変更している(らしい)。

遺跡はフィヨルドの側にある。海に近く、交易面では都合がいいが、その反面外敵から狙われやすいので、囲いがなされていたことがわかっている。中世に入ると、エリート層の軍人たちは、沿岸で船がフィヨルドを通過するための通行税を徴収し、財を成し、入港を管理することで外部からの攻撃を未然に防いだ。

https://en.natmus.dk/historical-knowledge/denmark/prehistoric-period-until-1050-ad/the-early-iron-age/the-chieftains-grave-from-hoby/

- Himlingoje : ローマからもたらされた品々がまず行き着く場所。ここにまず集められた後、エリート間で再配分される。役割の割に都市というわけではなく、田舎だった。この地方は比較的豊かで13世紀までその発展は続く。3世紀の墓からは多くのローマ遺物が出土しているが、エリート層の墓のみに限られる。当時の北欧のエリートたちにとってローマ風の道具や装飾、文化は好まれ、富裕の証とされていたのかもしれない。

- Ellekilde : かなり大きな墓が10m程度の墳丘に囲まれている。骨の分析からして、死因は落馬であったと思われる。おそらく軍人であったのだろうが、墓から一切武器は見つからなかった。この地方では武器を遺体と一緒に埋葬する慣習はなかったのかもしれない。実際、この時代にユトランドあたりでは、埋葬ではなく骨壷が使われている。多くの3〜4世紀頃のものと思われるローマ風の遺物が見つかった。この墓は舟型をしていたが、本当の舟というわけではなく遺体の周囲を囲うようにわざわざ造られたものと思われる。

武器の生け贄は主に3〜5世紀の間、北欧でも南の地域で多く見られる。この地域には湖や沼が多い。例えば、ユトランドの Illerup AdalNydamなどで、生け贄として捧げられたとみられる多くの武器が発見されている。特にNydamで出土した武器はアルプス以北で最も貴重なローマ製武器(2〜3世紀)のコレクションとされている。

後世のプロコピウスの記述によると、ゲルマニア南部では人身も武器と同じく捧げられていたらしい。この記述が本当であるならば、北欧地域で人体(敵軍から調達)が生け贄として捧げられた可能性はあるが、Nydam付近の湖からはそれらしき人骨はまだ見つかっていない。(その代わり馬や犬の骨は見つかっている)

- Gudmeでは、3世紀頃、定期市が開催されており、 大きなホール(Halle)と10kg(5〜6世紀のもの)にも及ぶ金が出土している。

http://natmus.dk/historisk-viden/danmark/oldtid-indtil-aar-1050/yngre-jernalder-400-800/gudme-guld-guder-og-mennesker/skatte-af-guld-og-soelv/

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