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POST RÉCENTS : 

アッカドと帝国の出現

ー2350年、アッカドの初代の王サルゴンによって人類初の帝国が誕生する。

帝国誕生以前はシュメールのそれぞれの都市の外交や紛争によって多国間主義?(multilatéralisme)が保たれており、ひとつの国がすべての国を統べるという発想はなかった。それに反して、アッカド帝国は自国がその他すべての国を統べ、従わないものがいれば力でねじ伏せ殺すといったuniversalisme politiqueに基づく。

アッカド帝国以前、シュメールの都市はあくまでローカルな規模での統治に留まっていた。しかし、サルゴンは何を思ったか、世界規模ですべての都市の君主に君臨しようとした。アッカドの帝国主義は軍と官僚によって支えられ、このような帝国主義的な国家はオスマン帝国まで続く。

アッカド帝国の今までに国と違うところ

• 一般化された軍事形態(暴力でねじふせる!)

• 政治とイデオロギーの変化

• 街を奪い寄生していくタイプの侵略

アッカドの人々と同じくまたシュメールの人々もとても暴力的だった。しかし、アッカド軍はシュメールのそれとは根本的に立場も戦い方も異なる。サルゴンの碑文によると、5400人の兵士たちは普段からサルゴンと食事を共にしていたらしい。つまり兵士たちはサルゴン(世界の王)と食事をともにすることできるほど身分の高い特権階級の人々であり、人数は少なくとも、鍛えぬかれた殺人のプロ集団だった。

一方で、シュメールの兵士たちは国から収集をかけられた農民たちであり、人数は多くとも戦い方など全く知らないド素人であった。 シュメールの兵士たちは「戦うのやだなあ、あそこの麦はもう刈らないと…」なんて考えながら、収穫の時期になれば街へと帰っていくのに対し、アッカドの兵士たちは農業などしない専属の殺し屋なので、殺傷能力もモチベーションもシュメールの兵士たちの比ではなかった。

アッカドの兵士たちは毎日10時間25km歩き、侵攻する決まりとなっていた。シュメールの都市たちは真っ先にアッカド軍の餌食となった。アッカド軍にとって、川沿いに南に進むだけで到着できるシュメール(だいたいバグダッドあたり)は手っ取り早く進行できる場所だった。北メソポタミアの侵攻はステップを登っていかなければならないので、南より難しかったが、サルゴンはレバノン、トルコの東辺りの森まで勢力を伸ばしていった。

征服活動における木を切ったり、鉱石を採掘したり、征服した街から略奪したりする行為はアッカドにおいて、英雄的な行為となった。これらの行為は彼らの間で「税金の回収」と呼ばれた。アッカド軍は防壁を破壊し、街を片っ端から従属させていき、これは150年間ほど繰り返された。サルゴンの後に王となったNaram Sinは航路を利用し、ペルシャ湾の方にも攻めていった。陸路においてはシュメール時代に貿易のために整備されたルートを使っていた。

アッカド軍による絶え間ない征服、破壊行為は他の側面も持っている。征服は権力を見せつけるパフォーマンスであり、これを続けることで征服した都市に税金を治めさせ続けた。

アッカド帝国における王の役割はまず戦いのリーダーであることで、シュメール文明の都市のにおける王の支配者としての役割は二の次であった。

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