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POST RÉCENTS : 

共和制ローマのバジリカ②

フォルム北に位置するバジリカ アエミリア(Basilica Aemilia) は紀元前179年に二人の執政官によって建てられた。

ちなみに執政官は一年ごとに二人ずつ投票で選ばれた。

建物の建設などの権利を持つのはCenseur(検閲官?)という役職で、5年に一度選出される。大カトは自身が検閲官だった時にBasilica Porciaを建設させている。その5年後、Marcus Fulvius Nobilior と Marcus Aemilius Epidusが検閲官だった年に、バジリカ アエミリアは建てられた。バジリカ アエミリアはヘレニズム様式に影響を受けていると言われている。中心の空間をnefが取り囲むように配置されている典型的なタイプのバジリカ。

検閲官のひとり、Marcus Aemilius Epidusは紀元前200年頃、元老院より指名され、エジプトに滞在していた。バジリカ アエミリアに見られるヘレニズム的な建築様式はそこからインスピレーションを受けたのでは?という説があるが、定かではない。

フォルム南、バジリカ センプロニア(Basilica Sempronia) は紀元前196年に建てられた。発掘の結果、大貴族クラッスス家の邸宅がバジリカ センプロニアの下の地層から発見された。一世紀後には、バジリカ センプロニアは家事で焼け落ちてしまったため、バジリカ ユリア(Basilica Iulia) に取って代わることとなる。

バジリカ ユリアは紀元前54年にカエサルが建てた。

設計はバジリカ アエミリアとよく似ているが、柱を増やすことで、より内部に自然光を差し込ませることに成功している。柱の立ち並ぶ外壁の上部には、屋根ではなくテラスが設置され、そこからフォルムが一望できるようになっていた。詳しくはVitruveのDe Architecturaを参考に。

多くのバジリカが共和制期に建て直されたため、バジリカの元の状態を知るのはかなり難しい。

他の共和制ローマのバジリカとして、ポンペイのバジリカが挙げられる。かなり保存状態がいい。通常、バジリカは長方形をしていて、長い面がフォルムに面するように建設されるが、ポンペイでは短い面のほうがフォルムに面しており、これは珍しい例である。中心部に入る前にchalcidicum(玄関部分)がある。

ポンペイのバジリカ

ポンペイのバジリカ

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Italie_Pompei_Basilique_-_panoramio.jpg

rene boulay, Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0

壁にかかれた落書き« 紀元前78年10月3日、Caius Lucius Lupidus はここにいた。»のおかげで、年代が特定された。

4つのイオニア式の柱はテラコッタを積み上げ、それを凝灰岩でできたモルタルで固定し造られている。スタッコは大理石を真似て仕上げ塗りされた。このようなトロンプルイユの使用はローマ美術の1つめの様式にも見られ、2つめの様式(紀元前100年頃)で極められた。

バジリカ内部の一番奥には階段があり、その先に、二列のコリント式の柱に隔てられた法定がある。バジリカは裁判所としての役割もあったが、雨が降った日にはフォルムに店を出していた者たちが、バジリカ内部で店を開くこともあった。

バジリカが宗教的な用途で使用されるには、共和制後の帝政期を待たなければならない。

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