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POST RÉCENTS : 

シャルルマーニュとエクス・ラ・シャペル(アーヘン)①

8世紀末、シャルルマーニュはサクソン(現在のイギリスあたりに住む人たち、ドイツ、スカンジナビアから入植して定住してアングロサクソンとなった)との戦争の真っ最中であった。この頃、サクソン人たちはまだキリスト教徒ではなかったので、シャルルマーニュに改宗を強いられていた。改宗を拒むものは無理やり川に入らされ、それでも抵抗すると殺された。この慈悲のないやり方がもしかすると、スカンジナビアの人々(Viking)を南への遠征へと触発した一つの原因と捉えられるかもしれない。

そのような時代背景がある中、エクス・ラ・シャペルにシャルルマーニュのパレが建てられた。エクス・ラ・シャペルはサクソンの住む場所から遠くなく、狩りにも適していて、さらに温泉水の湧き出る地であり、滞在するにはうってつけの場所だった。

エクス・ラ・シャペルは古代にすでに存在していたが、それほど大きな重要な街(CIté)ではなく、周辺の小さな町(Agglomeration secondaire)にすぎなかった。

シャルルマーニュは孔雀を宮殿の庭にいさせることを強制していた。孔雀を宮廷の人々と食べることもあった。当時の流行りだったらしい。

近年の考古学調査で、Aulaと呼ばれる、王の面会室が発見された。

入り口から、最終的にAbsideにたどり着くまでにの距離は非常に大事で、建物の奥に進める者ほど、シャルルマーニュに親しく、身分の高い者であった。

Absideの装飾にはビザンチン様式が取り入れられている。 Absideは今でこそ、教会建築に頻繁に見られる構造ではあるが、当時はまだ宗教的な意味合いを持っておらず、階級の高い者達が食事を取る場所であった。ある時から、食事の際のテーブルの形がT字型だったり四角だったりしたものが、丸いテーブルに取ってかわった。食事はテーブルの上に横になってとった。(例:ラヴェンナのモザイクでは、キリストとその使徒たちは寝っ転がって食事をとっている。)

トゥールのグレゴリウス(Grégoire de Tours)によると、王家の人間は横になって食事をとっていたらしい。野蛮人(barbare, いわゆるローマ、キリスト教文化の影響を全く受けてない人たち)も皇帝風のこの習慣を真似していた。

Absideは宴会(banquet)と関わりがあると言われる。エリート階級の間では、宴会の文化は非常に重要であった。トゥールのグレゴリウスによると、素晴らしい宴会の催すために腕の立つ料理人(身分は奴隷)を誘拐した事件もあったそう。この宴会の文化はおそらく埋葬にも影響を与えていて、死者の足元にはお皿や硝子のコップが置かれることもある。

エクス・ラ・シャペルに関しては、多くのことが文献からわかっているが、残念ながら、考古学的資料はそれほど豊富とは言えない。なぜなら、最初の考古学調査は19世紀にすでに行われており、当時の調査方法は今ほど洗練されておらず、遺構や遺跡の損傷を省みていなかったからである。

シャルルマーニュは東ローマ帝国の皇帝をライバル視しており、何かと競い合っていた。

シャルルマーニュがエクス・ラ・シャペルに巨大な宮殿を立てる計画を練っていたことは、教皇ハドリアヌスに向けた手紙によって証明されている。ハドリアヌスはシャルルマーニュがラヴェンナからエクス・ラ・シャペルでの宮殿建設のための材料を好きに持って行って良いという許可を与えていた。

« spolia »:= 建築材料の再利用 (la réutilisation de matériaux)。 シャルルマーニュは多くのローマ建築の柱や大理石、彫刻をエクス・ラ・シャペルへと持ち帰った。 エクス・ラ・シャペルとラヴェンナはかなり遠く、建築材の運送は相当な費用と時間を要したと思われる。では、なぜ、シャルルマーニュはわざわざラヴェンナから材料を調達したのか?それは、権力の正当性を証明するためである。シャルルマーニュにとって、古代の権力とのつながり、つまり古代ローマとのつながりを証明することは、現在の彼の王としての地位を確立するのになくてはならないものだった。

古代の習慣を真似てか、浴場も存在していた。調査の結果、浴場に温かい水を供給するための装置が発見された。

このチャペルは2つの施設を兼任していて、建物自体は19世紀まで付け加えられたり、修復されたりが繰り返されていた。チャペル中心部は13世紀ゴシック様式、他の部分はところどころシャルルマーニュの時代のもので(年輪年代による結果)あった。9世紀にはTour Granusが増築された。現在では、市庁舎として使われている。

面会室やTour Granus は宗教施設と、宗教以外の目的の施設の間に挟み込まれるように位置している。しかし、初期中世に置いて、宗教的なもの、宗教的でないものの分別は難しい。たとえば、カロリング朝の文献にしばしばでてくる« sacra aula » はシャルルマーニュの権力の神聖さについて話すときに出てくる言葉である。このように権力と宗教の距離が非常に近い場合に、解釈の仕方に気をつける必要がある。

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