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POST RÉCENTS : 

アヴィニョン小旅行

大学が夏休み(厳密には試験結果と追試待ちの中休み)に入ったので、友人たちとアヴィニョンへ日帰りで行ってきました。

アヴィニョンの町並み

アヴィニョンはアヴィニョン捕囚時の教皇庁で有名な中世都市です。当時のものかは定かではないですが、街を取り囲む城壁もそのまままるごと残されていました。

                      教皇のパレ

今回は考古学科の友人とではなく、法学部の友人たちと行ったので、教皇のパレ見学にもあまり時間を割くわけにもいかず、おもしろい展示もさーっと見てしまったのが無念です。発掘や修復時に出土した品々の展示や、展示パネルで各部屋の用途、その部屋で働く人々の役職、仕事ぶりも分かるようになっていました。壁画やタイルなども修復されたばかりなのか、色鮮やかで、さすが入館だけで10ユーロぐらい取るだけあるなと思いました。

                  時代別の教皇庁の支出の割合

上の画像は個人的に面白いなと思ったので写真を取っておいた時代別の教皇庁の支出の割合です。一番右の円グラフだと赤の占める割合が多いんですが、これ軍事費です。

教皇の滞在中はイタリアから多くの文化人や画家が押し寄せて、芸術の街としても有名だったそうで、私は行ってませんが、アヴィニョンにある美術館には今もイタリア人画家の宗教画がたくさん所蔵されているみたいです。そういえば、教皇のパレ内部にもシモーネ・マルティーニの作品があった気がします…

カテリーナ・ベニンカーサという聖女

シエナの染物屋の19番目の娘として生まれて平凡に暮らしていたんですが、彼女が6歳の時突然ドミニコ会教会のある丘に教皇の格好をしたキリスト見てしまい、彼女の人生は一変します。彼女の見たキリストは教皇のように三十冠をかぶっていて、そばにはペテロとパウロとヨハネがいたと。兄弟たちは何も見えていなかったので、カテリーナのことを怪しく思ったのですが、カテリーナはその事件以来、キリストに人生を捧げ生きることを決めます。彼女は修道女にこそなりませんでしたが、彼女のその神秘的な体験談を聞こうと人々が彼女のもとに押し寄せました。その人々の群れは「麗しき群れ」と呼ばれていたそうです。麗しき群れの中には、ドミニコ会の者が多くいました。

歴代の教皇がローマではなくアヴィニョンに滞在するようになってから、多くの人々がローマ帰還の説得に教皇庁を訪れたましたが、教皇は聞く耳を持ちませんでした。カテリーナも同様に教皇を説得するためにアヴィニョンへ向けて旅に出ました。当時の詩人ネリ・ディ・ランドッチオは彼女の旅のメンバーに選ばれ、その旅についての詩を残しています。1376年にカテリーナはアヴィニョンに到着し、教皇グレゴリウスとの謁見の末、なんと教皇の説得に成功します。

教皇はローマへ還るために船に乗り込みますが、嵐に見まわれ、ジェノバへ寄港することになります。その間に、教皇に同行していた枢機卿たちは、ローマでは暴動が起こり、フィレンツェでも反乱があったという噂を聞いてしまいます。教皇はもしかして、いま帰還するのは時期が悪いのでは…と心配し始めます。自分では決めかねた教皇は、またもやカテリーナに相談します。カテリーナの二度目の助言の末、教皇はやっと帰還を決意し、1377年にローマへ帰りました。

その後、アヴィニョンはフランスにありながらも、教皇領として残っていました。アヴィニョンが正式にフランス領となるのは、フランス革命の頃です。

参考文献

Pernoud, R. et Pernoud, G. 福本 秀子 (翻訳), 『フランス中世歴史散歩』, 白水uブックス, 2010

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